関ヶ原の戦い Battle of Sekigahara

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石田三成陣跡(笹尾山)  国指定史跡
住所 岐阜県関ヶ原町関ヶ原4008        
問合せ先
0584-43-1111(地域振興課)  
  0584-43-1289(関ケ原町教育委員会)  
ロケーション 関ケ原駅北西  
  JR関ヶ原駅  1700m 徒歩 25分
  関ヶ原IC  2050m 車 4分 徒歩 7分
駐車場 20台  
WC
あり
 

    石田三成は、関ヶ原の戦いに敗れて捕らわれ、六条河原において斬首された。豊臣家の将来を案じ、そして首が落とされるまで忠義を尽くした秀吉子飼いの武将であった       文禄の役・慶長の役では秀吉の代理人として武断派の諸将との戦略を巡り対立、その論功や処分、特に蔚山城の戦いでの査定などを巡っての争いは深刻であった      豊臣恩顧の武将の多くは三成に対して不信を抱いただけでなく、憎悪の念にかられ家康の下に参じたのであった
    関ヶ原の戦いにおいて三成は笹尾山に布陣し、二重の柵を巡らせた
    三成の本陣には武断派の黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの20,000の兵が雲霞のごとく押し寄せた。しかし三成の先鋒の島左近や蒲生郷舎は東軍の猛攻を必死に防いだが、防衛線は東軍に突破された
    三成は隠し持っていた大砲を東軍に撃ち放ち、同時に鉄砲隊が銃弾を浴びせかけた。
兵士達は大筒の威力や鉄砲に恐れて戦意を喪失し、陣地深くに逃げ帰る者が続出した
   
徳川家康は戦況がはっきりと掴めないのと東軍の兵士を励ますために、桃配山から陣場野(床机場)へと陣を移した                                     士気が甦った数倍の東軍の兵士によって石田隊は攻め立てられ、ついに三成陣の矢来まで追い詰められた
    三成が戦況を眺めると、西軍は健闘しており、毛利軍団と小早川軍団が攻撃すれば勝てると確信したのだった。三成は西軍総攻撃の狼煙を上げたが、毛利軍の出陣を阻害する位置に吉川広家軍が布陣したために、毛利軍は動くことができなった
    そして小
早川秀秋や脇坂安治らの裏切によって西軍は総崩れとなり三成は伊吹山へ逃れた。数日後伊香郡の山中の岩窟に潜んでいるところ田中吉政の兵に捕まり、京の六条河原で斬首されたて伊吹山に逃れた

 

関連する武将
西軍 石田三成(41)
動員兵力
 6000
 
領地(関ケ原の戦い前) 近江佐和山19万4千石(滋賀)
領地(関ケ原の戦い後) 斬首、所領没収
   

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