関ヶ原の戦い Battle of Sekigahara

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 1600年6月、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)は秘かに築城したり、軍備を拡大したりしていると讒言され、謀反の疑いがかった
    家康は景勝に嫌疑を晴らすために上洛するよう 命じたが拒否したため、景勝が豊臣氏に謀反を企んでいるとして会津征伐を諸将に命じた

   6月16日家康は大阪を発して東征する途中、畿内に不穏な動きがあるとして伏見城に側近の鳥居元忠などに留守居役を命じた
   そうして家康は途中鷹狩りを楽しみながら、半月ほどかけてやっと7月2日に江戸城へ入城したのだった。その後江戸城には西変の報が続々入ったが、7月7日会津攻撃の軍命を出し、討伐軍約80,000人を会津へ向けて進軍させた

    7月25日家康が下野小山に到着したとき、三成らが伏見城の攻撃を開始した報を受けた。7月26日決戦が近いと悟った家康は、軍議を開いて前後策を協議した(小山評定)
  この討伐軍には豊臣氏恩顧の武将が数多く追随していたが、彼らの妻子は大阪城などに人質として取られていたため、家康の陣からの去就の自由を問うものだった
  しかし豊臣恩顧の猛将福島正則が妻子を捨てても、秀頼に害を及ぼす奸臣石田三成を倒すための家康につくと表明すると、黒田長政ら諸将も競うように家康支持を誓った
    そして遠州掛川城主山内一豊が居城を家康のために明け渡すと表明すると、東海道の清州までの諸将も賛同したのだった。さらに正則は秀吉から預かっていた清州城の兵糧20万石の提供を申し出た

    徳川家康は小山評定で豊臣家の家臣同士の確執を上手く利用して、豊臣恩顧の猛将の福島正則らを家康側の天下取りの舞台に立たせたることに成功した
    家康は次男の結城秀康(ゆうきひでやす)、伊達正宗(だてまさむね)らを上杉景勝や佐竹義宣(さたけよしのぶ)の備えとして宇都宮に留め、徳川秀忠を大将に本田正信、真田昌幸(さなだまさゆき)など38,000の軍勢を中山道軍として木曽を経て美濃へ、また小山から東海道を取って返す福島正則、池田輝政ら 40,000の軍勢が東海軍として西進し、家康は自ら30,000の軍勢を率いて江戸城へ向かうことを決定した

  7月2日会津征伐に従軍しようと敦賀を出陣した大谷吉継(おおたによしつぐ)は、途中豪勇で知られている垂井の平塚為広(ひらつかためひろ)の屋敷に立ち寄った。それを聞いた三成は佐和山城に吉継らを招き、家康討伐の密計を打ち明けた

    しかし吉継は「天下の趨勢は家康にあるので、豊臣家の崩壊を早めるだけだ」と諌めたが、三成は聞く耳を持っていなかった。7月11日吉継は三成の豊臣家へ の忠義心に絆され、また三成への永年の友諠に答えるべき、またハンセン氏病が悪化して、眼も見えず、歩行も困難状態で、死期が近いことも悟っており、豊臣家や三成のために一肌脱ぐことを決意した

   三成は毛利氏の外交僧(使僧)の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)、増田長盛(ましたながもり)にも家康討伐の挙兵計画を打ち明けた そして7月12日三成、吉継、恵瓊、長盛は佐和山城で会議を開いた
    会議では家康に次ぐ大大名の毛
利輝(もうりてるもと)西軍の総大将への就任の要請、会津討伐軍に参加しようとする諸将を引き留める、上杉征伐で東征した大名の妻子の帰国を禁じて人質にする、などを決定した

    即座に出馬要請が発せられ、5日後の7月17日には輝元は大阪に入り西軍の総大将になった

   その日三奉行の前田玄以(まえだげんい)、長束正家(なつかまさいえ)、増田長盛の連署で、関西の諸大名に「家康は豊臣家の法度、誓紙などに反して、秀頼様をないがしろにしている。秀吉様の恩を忘れていないなら秀頼様に忠節を尽くして欲しい」と檄文を発した
    それに応じたのが毛利秀元(もうりひでもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)、小西幸長(こにしゆきなが)、島
津義弘、島津豊久らの多数の諸将で兵力は約100,000人に及んだ 

     しかし兵力から見れば東軍とは遜色ないが、烏合の衆で行掛かり上、西軍に属した大名も少なくなかった
    例えば島津義弘、豊久は家康に伏見城の留守を頼まれていたので、伏見城に入城しようとしたが留守居役鳥居元忠に追い払われたため西軍に応じた
   
小早川秀秋は東軍の黒田長政と通じ、脇坂安治(わきざかやすはる)は藤堂高虎(とうどうたかとら)と内通していた
    また毛利輝元の重臣は家康派の吉川広家(
きつかわ ひろいえ)と三成派の安国寺恵瓊に分かれて紛糾していた

   そして会津討伐軍に参加しようとした前田茂勝、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)らも、愛知川に設けられた関所のため従軍をあきらめて西軍に参加した

  会津討伐に従軍した大名の妻子を人質にとる作戦は、大阪城に収監される前に
多くの武将の妻子が大阪や伏見から脱出したために失敗に終わった
    なかでも細川忠興の妻ガラシャは人質になるのを拒み、家老に自分を殺させ、屋敷に爆薬を仕掛けて火を放った。この壮絶な事件によって人質作戦は挫折したのだった

毛利輝元自画像(毛利博物館)                NEXT

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