秀吉は自分の死後の政務を、有力大名などによる合議制に託そうとした。それは幼い秀頼をどの様に守り、天下人にするか、また徳川家康の台頭を防ぐかを悩んだ末の策である
しかし秀次事件、また文禄の役・慶長の役などでの秀吉による処遇を巡って豊臣政権下の内部には不満が渦巻いており、とても一枚岩とはいえなかった
特に文禄の役・慶長の役では秀吉の代理人としての文治派の奉行・軍目付けと武断派の諸将の戦略をめぐる対立、また論功、蔚山城の戦いの査定などをめぐっての争いは深刻のそのものだった
秀吉の生存中は文治派と武断派の争いはあまり表面化しなかったが、没後は、文治派と武断派の対立が激化し、文治派の長である石田三成に対しての憎悪は最高潮に達した
文治派と武断派の争いの仲裁役は前田利家であったが、その利家も亡くなり、1599年武断派の七将による石田三成襲撃事件が起きた
加藤清正の屋敷に集合した七将は、伏見城に逃げた三成を血祭りに上げようと試みたが、伏見城で政務を取っていた徳川家康に阻まれたのである
家康は七将に奉行職を剥奪して三成を蟄居させることを約束、さらに朝鮮の蔚山城の戦いの査定の見直しの提案をして事態を収拾、三成を佐和山城へ逃がしたのであった
そして同年秋五大老の前田利長らによる家康暗殺計画(加賀謀反説)が明るみに出た。家康は加賀征伐を諸大名に発したが、利長は開戦を回避するため母親を家康に人質として出すことなどで身の潔白を証明して幕引きを図った
この事件で五奉行の浅野長政も蟄居、五大老の利長も家康に取り込まれ、秀吉の遺命である五大老・五奉行の合議制は反故となった。家康は秀吉の死後禁止となっていた大名同士の婚姻(婚約した娘は家康の養女にした)、秀頼の名を借りた諸大名への加増を行い勢力を着々と拡大していった
そして家康は秀吉と共に戦場を駆け巡って天下取りを手伝った武断派の猛将に、さらに彼らの母と慕われている北の政所(寧々)に接近して、歴戦の猛者を麾下に加えることに成功した
また諸大名の中には時流を見て、天下人は家康と判断して家康に媚びるものも多く出てきた
加藤清正と石田三成
(名古屋市秀吉清正記念会館)
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