二十一日池田輝政、浅野幸長(あさのよしなが)、山内一豊ら18,000の軍勢は木曽川の上流から、福島正則、黒田長政、細川忠興(ほそかわただおき)は木曽川の下流から美濃へ入った
二十二日福島正則は西軍の竹ヶ鼻城を攻撃落城させ、そして難攻不落と言われた天下の名城岐阜城へ向かった
二十三日早朝、福島正則、池田輝政らが岐阜城へ総攻撃を開始した。岐阜城には西軍に加担する織田秀信が守っていたが、その日のうちに落城させた
その功を奏した池田輝政は二十代前半に岐阜城主であったために、輝政やその諸将は岐阜城の構造上の欠点や弱点、また岐阜城下などの地理などに熟知していたためであった
岐阜城の落城を聞いた家康は、宇都宮にいた徳川秀忠に中山道から美濃に向けて出陣を命じた、自らは九月一日兵30,000を率いて江戸を出発し、十三日には岐阜に、そして翌十四日に、東軍の諸将達が待つ赤坂(勝山)に到着したのだった
徳川秀忠は中山道を外れて二日には小諸に至った。小諸には三成と親戚でもあり、西軍に与する真田昌幸、信繁(長男信幸は正室が本多忠勝の娘であるため、東軍に与する)が待ち構えていた。秀忠は家康の精鋭部隊を38,000を従えて、2,000の兵が籠城する上田城を攻撃した。しかし真田昌幸の巧みな戦術は秀忠軍を翻弄させ、ついに上田城攻略を諦め、十一日美濃へ向かった。途中には塩尻峠の難所が秀忠軍の行く手を妨げ、戦い前日になっても未だに今の塩尻あたりいた
三成の最初の計画は尾張と三河との境で迎撃しようとしたが、正則らの大軍が清州城に集結したためにこの作戦は失敗した。次に考えたのが難航不落と言われた岐阜城周辺ですなわち尾張・美濃の境で東軍と戦い、主力の西軍が伊勢から背後に回る作戦を考えていたが、岐阜城があっけなく落城したため作戦変更を余儀なくされたのである
九月三日北陸から美濃へ転進した大谷・脇坂軍は関ヶ原の西部の山中・藤下に到着した。大谷吉嗣は直ぐに小早川秀秋の裏切りを予想した陣地造りを始めたのだった。また伊勢に向かった宇喜多秀家は大垣城に入城した、九月七日毛利秀元の軍団も伊勢から美濃へ入り南宮山の山麓に布陣したのだった
岐阜城 岐阜観光コンベンション協会
九月十四日家康が赤坂に到着の報が入ると、西軍の兵に動揺が見られるようになった。戦上手の三成の家来、島左近(清興:きよおき)は杭瀬川で東軍を誘き出して銃撃を加えて勝利し、味方の士気を鼓舞するのに成功した(杭瀬川の戦い)
杭瀬川の戦いのあと大垣城中で、三成、秀家、維新、行長らが軍議を開き「赤坂を夜襲しよう、もし失敗したら大垣城で固守しよう」を決定した
しかし家康は西軍が大垣城に固守されると攻め落とすのに時間がかかり、戦況が不利になるために、「佐和山を攻め、そして大坂城を攻める」との嘘の情報を流した
三成自身は関ヶ原での戦いを想定していたらしく、この東軍の報に押されて十四日夜七時大垣城に7,500人の守備兵を残し、雨の中全軍を南宮山の山麓を迂回して関ヶ原へ進軍し、次のように布陣したのだった
北から
笹尾山 石田三成(兵力6,000人)
小池 島津義弘(兵力1,500人)
北天満山 小西行長(兵力6000人)
南天満山 宇喜多秀家(兵力17000人)
山中(宮上) 大谷吉継(兵力4000人)
松尾山山麓 脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保(兵力4000人)
松尾山 小早川秀秋(兵力16000人)
南宮山 毛利秀元(兵力15000人)、吉川広家(兵力3000人)、安国寺恵瓊(兵力1800人)、長束正家(兵力1500人)、長宗我部盛親(兵力6600人)
家康は「西軍が大垣城を出て関ヶ原へ向かう」の報を受け、東軍の諸将は次々と関ヶ原へ向けて進軍し、西軍と対峙したのだった
石田三成隊を攻撃するために
右翼(丸山) 黒田長政(兵力5400人)、竹中重門
右翼の横 細川忠興(兵力5000人)、加藤嘉明(兵力3000人)、田中吉政(兵力3000人)、筒井定次(兵力2800人)
島津義弘隊を攻撃するために(家康最後の陣の全面)
茨原 井伊直正(兵力3600人) 、松平忠吉(兵力3000人)
さらに織田有楽、生駒一正、古田重勝など(兵力4500人)
宇喜多秀家を攻撃するために
左翼(松尾) 福島正則(兵力6000人)
大谷軍・小早川軍攻撃するために(松尾後方)()
紫井 藤堂高虎(兵力2500人)、京極高知(兵力3000人)
桃配山 徳川家康(兵力30000人)
南宮山の毛利軍団に備えて
池田輝政、浅野幸長、山内一豊(兵力17000人)
大垣城に備えて11000人の布陣をした
杭瀬川 NEXT